屋根裏のゴミ

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みっともなくても痛々しくても、それでもいいから土俵にあがれ。映画「何者」感想。

映画化が決定し、公開したら真っ先に観にいくぞ!と意気込んでからはや1か月。ようやく観てきました、映画「何者」。観終わった後独特の高揚感と感想から生まれるあらゆる感情が逃げ出さないうちに感想を書き留めておこうと思います。

 

何者 (新潮文庫)

何者 (新潮文庫)

 

 

現代大学生の就活の模様を描いた作品、「何者」。丁度、私自身の就活が始まる前に小説を読みました。あちこちで面白い面白いという感想を耳にしていましたが、噂以上の面白さというか、新感覚の小説で、すっかり著者・朝井リョウさんのファンに。

この作品は文体ならではの面白さがあり、Twitterというツールも出てくるため、それらが相まって良い相乗効果を生み出し、良い意味での現代小説になっていたかと思います。また、独特な文体から漂う後味の悪さ、読者に想像の余地を与えることによってより際立つ気味の悪さみたいなものが特にこの作品は強いので、映像化は非常に厳しいのではないかと思っておりました。

 

ところが。

観てびっくり。

 

映画ならではの映像によるある”仕掛け”をやってくれました。

まあそれが何であるかは置いておいて。

 

まず極端なところからお話するとこの作品は、主人公が自分自身のことを、第三者・物語の語り部・傍観者であると思っていたけれども、舞台上の”役者”だと思っていた周りの友人たち登場人物から「お前は傍観者でも語り部でもない、自分たちと同じ滑稽な役者の一人でしかないんだよ。」と一気に地の底へと引きずりおろされるお話です。

 

例えるならば、自分は檻の外から囚人たちを観察・視察している看守のような立場の人間だと思っていたにも関わらず、ある日突然囚人の一人に「そんな偉そうに自分たちを卑下して見ているけれど、自分の足元を見てみろよ。同じ鎖で繋がれてるぞ。」と、今まで見下してきた囚人に自分の立場や現実を知らされるような、そんな世にも奇妙な物語のような感覚。はじめて小説で読んだ時は、心臓の鼓動がドクドクと素早く脈打つのがわかるくらい、胸が抉られるくらいの辱めを受けているような、そんな気分になりました。大好きです、この気分の悪さ。

 

このロジックがうまいのは、主人公=読者という方程式にうまくミスリードしているからなんですよね。物語の中の主人公というのはそれこそ重要なポジションであり、読者に感情移入をさせることができるか、はたまたすんなりと物語の世界観へと誘うことができるか、そんな大切な役割を担っているわけです。これをミスると、某FFさんのファルシのルシがパージしてコクーンになってしまい、うーんなんだかよくわからないなあ、面白くないなあと、どんどん世界観と読者の間に隙間が生まれてきてしまいます。

けれどもこの「何者」の主人公である拓人は、どこか傍観者気取りで友人たちのことを常に分析・批評しており、物語の進行役としては非常にわかりやすい存在でした。あくまで、”物語の進行役としては”です。そのため、読者は拓人のことを一人のキャラクター、登場人物としてみていません。これが著者の狙いなのかなと個人的には思います。こいつは主人公で、進行役だからこいつについていけば大丈夫だろうと、勝手に共感、感情移入してしまうのです。そのまま誘導され、自己投影し、就活の波にのまれにのまれ、気づいた時には舞台の上だった。というオチが待っています。いやー、なんとすがすがしいくらいに気味の悪いオチなんでしょう。この構成にはもう脱帽としか言えません。

比喩表現での”舞台”と、拓人がサークルで行っていた”舞台(演劇)”この二つを映像で見事表現しているのには素晴らしいセンスを感じました。特に、二階堂ふみにグサグサ心を抉られてからの回想シーン。まさに舞台の上で踊る役者そのもの。従来のシーンではきちんとモブがいたところもマネキンに変わっていたり、そもそものステージがチープな舞台セットになっていたり等今度は逆の役者から、そして読者からも自分の立場を思い知らされ、今まで上から批評しまくっていたけれど、それもこの舞台上の一ポジションでしかないんだよと思い知らされ、一気に現実に引き戻されていくわけです。

 

現代の就活、Twitterによる二面性、承認欲求などなどその辺のテーマについて語るのもいいですが、まあこちらはこちらであらゆるところで語りつくされているような気がするので、あえて私は舞台装置について言及してみました。ある意味、映画をみたからこそ、この舞台装置の面白さに気付けたというか、メタファーされたものが可視化できたことによって、自分が小説を読んで面白いと感じた部分の根幹の部分がようやく発見できたような気がします。映画様様。

 

 

ここからちょっとTwitterは我々に何をもたらしたのか、という話。

Twitterというのは不思議なツールで、ブログなどとは異なり140字という制限があります。これが良くも悪くもこの現代社会の闇を生み出してしまったと思うのです。

例えばこれがブログだったらどうでしょう。文字数に制限はありません、何をどれだけ書こうが自分の勝手です。でも、ブログとして、「記事」として、質や量は問わずネットの海に漂うモノに対して、たった数行の「ふと思い立ったこと」を書きますかって話なんですよ。そんな使い方をしていた人はほとんどいなかったのではないかと思います。

きちんとタイトルがあって、それに対する内容があったはずです。クオリティはともかく、形式上は「記事」になっていたのではないでしょうか。ところがTwitterというツールが生まれ、人々は「記事」を書かなくなった。タイトルをつけることも、冒頭を考えることも、内容も、結論も、何もかも。しかしながら、たった140字で書けることなんてたかが知れているわけです。なので私たちは、ふと思ったことを書くようになりました。それこそ「つぶやき」と呼ばれるようなぼやきが大半。でも、そのぼやきには、少しずつ心の奥底から湧き上がる負の感情が表れるようになりました。このツールの手軽さゆえに次第に加速し、140字の「傑作」を生み出す度、自身の心のソウルジェムは濁っていくわけです。この行為の愚かさと虚しさを、心のどこかでは気付いているけれども、自身の醜さと弱さに対面する自身も勇気もなく、ただひたすら逃げ続けるために140字の「傑作」を生み出していく。そんな構図を生み出してしまったんでしょう。まさにそれを体現した人物こそが拓人であり、この人物に共感・感情移入をしてしまった私たちなのです。

苦しみ、もがきながらも努力し続け、10点、20点でもいいからとにかく作品を世に送り出す人物を、「痛々しい」「寒い」などという形容詞で括り、140字の中で批評する。そんな、何でも冷静に分析できて、誰よりも優れた位置にいると錯覚し続けなければ、もう自分の足で立っていることすらいられない。誰しもが一度は経験のあるような(私は少なくともそういう時期があった)この「観察者ごっこ」。実は、これをしている人間が一番卑怯で、矮小で、醜い存在なんですよね。そんなことわかっているんだけど、やめられない。他人を調べつくし、自身の立場を確保し、優越感に浸ることをやめられない。もはや、麻薬のようなツールなのだと思います。Twitter恐ろしい子…。

 

でも、もう、そんなことはやめようよ。

そんなことをしたって、何にもならないんだよ。

 

そう気付いた瞬間が、「大人」になれる瞬間なのかもしれません。

要はモラトリアムからの脱却、というわけです。

 

140字だけの、小さな小さな閉じた箱庭に引きこもることをやめ、みっともなくても、痛々しくてもいいから、少しでも成長できるように、少しでも結果がでるようにもがきあがき続ける。その行動を起こしてようやく、「土俵」に立てるのだと。行動する前に斜めからとやかく言っているうちは、そんなものは自分の箱庭でしか通用しない傑作で、外に出た瞬間に崩れて消えてしまうのだと。

 

原作を読んだとき、今まで自分が向き合えていなかったこの「観察者気取りの自分」を認め、許容し、強くなれた気がしました。だからこそ就活のことをただ闇雲に批判せず、自分のやり方でいいから楽しめるように前向きに考え、実際なかなか楽しくやっていけたと思います。だからこそ、この「自身が抱える闇」を乗り越えられたか、そうでないかによって、この作品の受け取り方は変わってくるようなきがします。私は、この作品が救済となったパターンでした。

 

 

 こう長々と語ってきて、やはり最後に思うのは、この作品は「就活」をテーマにしているわけではない、ということです。いや、物語の題材として扱っているという意味ではテーマだったのですが、別に就活に限った話ではないんですよ。就活が彼らの心の闇を生み出したのではなく、人間が元来持っている、誰にも見られたくない醜く矮小な心の闇を、就活とTwitterがかけ合わさることによって浮彫にした、というべきだと思います。

いつだって、どこでだって、人間の心の闇は醜く、深く、どこまでも根を伸ばし、この現代社会という舞台に蔓延しています。正解も不正解もないこの世界で。

 

 

 

 

 

最後に一つだけ言わせてください。

大学生があんなデカくておしゃれな家に住めるわけないだろ!バカか!!すみたいわ!!!

 

 

何様

何様

 

 ということで、何様も読みたいと思います。

はあ…朝井ワールドやべえわ…最高…。