屋根裏のゴミ

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ペルソナ5は何故ペルソナ4を超えられなかったのか|超個人的感想

はじめに断りを入れておくと、このタイトルはあくまで「自分にとって」何故ペルソナ5がペルソナ4を越えられなかったのか、ということであり、決して「世間的に」という意味ではないのでご注意願いたい。

また、管理人にとってペルソナ4は今までのゲーム人生でNo.1と言っても過言ではないくらいの作品であり、ターニングポイントをつくってくれたきっかけでもあって、非常に思い入れが深い。

※4も5もネタバレ全開なので、未プレイの方はここでブラウザバックを推奨します。

以上のことを踏まえた上でOKな方のみどうぞ。

 

 

 

さて、先日ペルソナ5をクリアして、その感想記事を書いたわけだが

linkle24.hatenablog.com

 

クリアして暫く経つと、やはりどうしても前作であるペルソナ4と比べてしまう自分がいることに気が付いた。それは何故なのか。

ゲームのハードもPS4となり、システムもUIもグラフィックも何もかも全て前作を上回っている。だがしかし、それらシステム面の向上に敵わないエンターテイメントにおける唯一無二の存在、シナリオ・ストーリーがどうしても、どうしても超えられなかった。

 

ということで、今回はペルソナ5をクリアした後だからこそ考えられる、ペルソナ4の素晴らしい点、そしてペルソナ5が一歩及ばなかった点について語っていければと思う。

 

ポップな外見とは裏腹に、中身はダークでエッジの効いたシナリオ

よくペルソナ4はポップかつリア充過ぎてそこが合わないという声を耳にするが、正直な所ここまでダークで見たくもない現実を突きつけてくる作品は中々ないと個人的には思う。

 

ペルソナという力は、本来の心理学の意味も含めて「自らの仮面」。つまり自分自身であり、自らの内面をそのまま映し出した姿だといえる。そしてこのペルソナの力を得るためには、誰しもが心に宿している弱い自分・コンプレックスに感じている自分を認めて許容し、昇華する必要があるのだ。

 

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例えば陽介は、都会から田舎に引っ越し、つまらない日常に退屈していたところに殺人事件やマヨナカテレビといった非日常の事件が起こり、そこに巻き込まれながらも心の中ではそれらを楽しんでいる自分がいた。

完二は裁縫などの”女の子らしい”趣味を持っていたがために「男のくせに」と陰口を言われることに辟易し、人から拒絶されることを恐れ、コミュニケーションを拒否していた。

 

こういった弱い自分、コンプレックスに感じている自分、自分だと絶対に認めたくないような自分が、誰しも心の中に必ず存在する。そういった”もう一人の自分”は妬み、僻み、嫉み…様々などす黒い感情を何かに対して抱いた時に現れるが、当然ながらこんなどす黒いものを直視したい人なんているはずもなく、そのためゲームを含めたあらゆるエンターテイメントで直接的に描かれることは比較的稀であると感じる。

 

しかも追い打ちをかけるように、ペルソナ4の世界ではこの見たくもない”もう一人の自分”がマヨナカテレビという装置によって肥大化しているのである。この仕組みは本当にうまいなあと唸ってしまうのだが、メディアで取り上げられた人間に対して「もっと知りたい」「もっとみたい」という人間の欲望がマヨナカテレビという箱をつくりだし、決して真実ではない、事実を歪めたよりゴシップな映像を生み出してしまった。

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これは最近の芸能界で言えば、ベッ〇ーや成〇君の事件などがいい例で、こういった特に人の不幸やタブー的側面に関わる事件が起きると、大衆はこぞって詳細を知りたがる。それが真実か嘘かそんなことはどうでもよく、ただ面白おかしくその事件を消費したいのである。

 

大衆の歪んだ欲望は、サウナを生み、ストリップ劇場を生んだ。

自分の見られたくないものがより誇張され、歪んだ方向に肥大化した”フィクションの物語”がメディアと大衆によって形成され、世の中へと垂れ流しにされる。こんな恐ろしい公開処刑があっていいものだろうか。これがあくまで2次元の世界で起きていることのため、私たちはエンターテインメントとして楽しむことができるが、これがもし3次元のリアルの世界だったとしたら。…ここから先は考えたくもないのは言うまでもない。

 

 

ペルソナ5における、ペルソナ覚醒のきっかけの弱さ

 上で述べたように、ペルソナ4の登場人物達はみなそれぞれ心の中に闇を抱えており、苦しみながらもそれらと正面から向き合い、自分の力へと昇華させていった。

ここでペルソナ5の登場人物達がペルソナ能力を手に入れる過程を思い出していただきたいのだが、橋野Dインタビューにはこう記述されていた。

 

そして『ペルソナ5』では、まわりの環境によって自分らしさを抑圧され、未来まで奪われそうになっている主人公たちが、荒ぶるシャドウとも言うべき“本音”を鎖でつなぎながらも解き放つ。そうすることで、世界を変えていくような力強さのあるペルソナが発現する。これが、ジュブナイルRPGでピカレスク・ロマンを描こうとしたときの、“ペルソナ”の解釈です。現実で本音を爆発させたら社会的にうまくいかないことも多々あると思いますが、ふだんは抑え込んでいる想いこそが、人の個性の源だったりもしますし、それを大いに発散していく本作のゲームプレイで、スカッとした心地になってもらえればと。

 

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もちろん橋野Dが述べていることは頷けるし、中々表に出して表現し辛いような部分を描こうとしたのは素晴らしいと思う。しかしながら、「ふだんは抑え込んでいる想いこそが、人の個性の源だったりもしますし、それを大いに発散していく本作のゲームプレイで、スカッとした心地になってもらえれば」とあったが、残念なことに私はここで「スカッと」出来なかった。

 

それは何故か。

単純に言ってしまえば、敵の行動も目的も「陳腐」だったからである。

 

今回の「敵」という存在は、様々な悪行を行っている「腐った大人たち」であったが、こういう大人達の目的は結局、自分の私利私欲のためなのである。どんな種類の悪行をやっていようとつまるところ「私利私欲」に帰結してしまい、どうしても陳腐に感じてしまう点が拭えなかった。あらゆるエンターテイメント作品にありがちな金や地位、名誉、何故か世界征服を企む悪役。私にはそれと同じにしか映らず、登場人物たちと同様に怒りの感情を露わにすることが出来なかった。

 

「私利私欲」による悪行というのは、「悪役」にするための使い古された至極便利なツールである。よくヒーローもので、弱者を食いものにする敵に対して「許せない!」等の台詞を放ちながら敵を成敗していく、という構図をよく見かけるだろう。つまるところ、ペルソナ5もこの構図通りに進んでしまったのである。細かなキャラクターの背景などは、今の時代感にあった社会的問題を盛り込もうとした姿勢は感じられるが、この構図が根底にある限り、陳腐と感じてしまう要因は消し去ることができなかった。

 

本当に悪いのは一体誰?

この点ペルソナ4は非常に画期的だった。事件の真犯人である足立の動機は、私利私欲でもなんでもなく、ただ単純に「面白かったから」という理由である。

初プレイ時、この展開に対して非常に感心したのを今でもよく覚えている。現代社会の抱える闇の一つとして「退屈さ」というのが挙げられるが、彼も田舎に飛ばされたことによる「退屈さ」が事件を起こす一つのきっかけでもあった。これはかの有名なデスノートの主人公、夜神月くんが一連の事件を起こしていく最初のきっかけでもある。

 

少し話が逸れてしまうが、現代に起きている奇妙な事件の原因は比較的この「退屈さ」にあると考えている。人間は暇を持て余すということに対して強いストレスを感じるらしく、忙しく動いていると決して考えもしないようなおかしなことを考えたりする。この「退屈さ」が引き起こす問題の代表格として「いじめ問題」があると私は考えるのだが、5のPV(山手線に乗ってるムービー)でこの文字が見えた時はてっきりこのテーマに切り込んでいくのかと思い、ぞくぞくした。(残念ながら使われなかったが)

 

話を戻すと、現代社会の抱える闇の一つである「退屈さ」が足立の犯行を後押ししたと考えると(もちろん直接的には、らっしゃーせーが与えた力なのだが)、4で起きてしまった一連の事件の原因は、元を辿れば「社会の歪み」である。単なる足立という愉快犯の責任、ということではなく、直接的な動機のないこういった愉快犯を生み出してしまった根本的な原因は何であったのか、真エンドではきちんとそこまで突き止めていくのである。現実世界でも、おかしな事件が起きてしまった時に「嫌な時代だなあ」と、なんとなく時代の責任にし、そして他人事のように感じてしまう部分があるかと思うが、元を辿るに辿れば、自分たちの行動や姿勢にも、その責任の一部はあるのではないだろうか。

 

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特に私は、いつも何か事件が起きた時に「容疑者」だけに刃が向けられることに対して違和感を覚えていた。事件を起こした犯人に責任があるのは当然のことであるが、たまにそれだけでは説明のつかないような、社会のシステム自体が容疑者を犯行に追いやってしまったというケースも多々あると感じている。そういう根本的な問題に目を向けないで、お手軽な方へ簡単な方へと事態を流していってしまうこの世の中に対して、それっておかしいんじゃない?と疑問を投げかけることは非常に難しいことであるが、このペルソナ4という作品はやってのけた。これが何よりも私が評価している点であり、自分のゲーム史に残る最高の作品である所以なのである。この点5は勧善懲悪ストーリーとなっていたため、事象の奥深くに潜んでいる「根本的な原因」を突き止めていく、という要素がかなり薄かった。

 

もう「悲劇」による感情移入はできない

キャラクターに感情移入が出来なかった理由としてもう一つの要素があった。

それは、キャラクターへ感情を寄せるきっかけを「悲劇」に頼ってしまっている点である。

ここで述べている「悲劇」とは、キャラクターの背景として、親の死などわかりやすい悲劇性を持たせることによって、このキャラクターは苦労している可哀想なキャラなのだ、という意味付けをするという、これもまた使い古された手法である。

今作は主人公を筆頭として、パーティメンバーの境遇がなかなかに酷い。今回は「居場所がない若者」というのをテーマにしているので当然なのだが、「悲劇」にも種類があり、5に感じた印象としては、どこかこう「オラオラ!ひどいだろ!!怒れよこの大人たちに!!」という半ば暴力的で強引な、物理で殴ってくる感じの「悲劇」の見せ方だったように感じる。既に身近ではない悲劇の設定+強引な見せ方は、現実と乖離しすぎて感情を乗せることができなかった。

これが単純なファンタジーのゲームであるならば、割り切って考えられるのだが、ペルソナの良さは「実際の現代社会」を舞台にしているところだと思っている。私たちプレイヤーにも起こりうるような、現代社会に潜んでいる闇、事件に焦点をあてて、ゲーム仕様に着色したのがペルソナの肝であると考える。そのため、舞台は現代社会であるにも関わらず、設定がちょっとファンタジー寄りになっており、そこのちぐはぐ感が亀裂を生み出してしまったように感じる。

 

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その点、4のキャラクター達はどこにでもいそうな、比較的平凡な学生だった。もちろん、アイドルや探偵などというレアジョブキャラもいるが、設定はレアだったとしても、実際に彼らが抱えている悩みは現実と乖離しておらず、非常に納得のいくものだ。現代社会の若者誰しもが、今の時代だからこそ抱えている闇、悩みといったものに焦点をあてているため、「悲劇」に頼ることは一切なかった。キャラクターに感情移入するために、「悲劇」ではなく「弱さ」や「ダメなところ」見せることによって私たちに共感を促した。誰にでもあてはまるような事柄だからこそ、誰でも共感できるし感情を乗せることができる。これが4の素晴らしい良さの一つでもあり、4のキャラクターが愛される所以でもある。現実でも自分の友人や恋人の弱いところを知れば、より好きになるのと同じだ。

 

 

 ということで、長々と関係のないことまで述べてしまったが、こんな感じで今作は自分の中で前作を超えることができなかった。ただこれは4の完成度が究極に高すぎてしまったこともあり、その前作を超えていく、ということ自体非常に悩ましいことだったのだろうと思う。その中で世界的にあれほど評価されたペルソナ5という最新作を生み出したアトラスは本当に素晴らしいと思う。

あらためてまた述べさせてもらうが、今回はアトラスとペルソナ5という作品に対してリスペクトをもって、あえてこういった記事を書かせてもらった。ペルソナという作品が私にとってとても大事だからこその、勝手な個人的な意見であり感想なのである。