屋根裏のゴミ

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映画「パラサイト 半地下の家族」感想と考察|”半”地下と水石の意味

先日金曜ロードショーの2021年一発目、かつ35周年記念作品として地上波初放送された映画「パラサイト」。上映されている頃からすごく気になってはいたのですが、映画館へ足を運ぶタイミングを失い、何故か金ローの前日にようやくNetflixで観ました。(ちなみに、前情報や予告編など一切の情報なし)
結論から言うと、めちゃくちゃ最高でした。好きな映画BEST5に入るレベルでドハマりしてしまったので、今回は個人的に気になったところの考察を書いていければと思います。
※もちろんネタバレありなので、まだ観ていないよという方はブラウザバックで今すぐ観てきてください!
 
 
 

 

 

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”半”地下の意味

映画の副題をみてから、「半」地下であることに純粋な疑問がありました。なぜ地下ではなく”半”地下なのか。韓国では北朝鮮からの攻撃に備えて防空壕シェルターをつくる必要があると法律で定められてから、多くの家には半地下が備わっており、人口過多であるソウルでは半地下のスペースが一つの居住スペースとして使用されている、という背景から、韓国の日常の中にある貧困として題材にされたというのは劇中でも説明があったし、その通りなのです。ですが、その歴史的背景の他にももう一つの意味を持たせているのではないかと個人的に思いました。
 
半地下に住むキム一家は、自分たちよりもはるか丘の上に住むパク一家に近づく機会を得るわけですが、緻密とは言い切れない計画で、あれよあれよと驚くほど簡単に一家まとめてパク家に就職します。テンポが良すぎる展開にドキドキハラハラしながらも、この金持ち家族はなぜこんなにも雑なフェイクに気付かないんだ?と観客の誰しもが思ったはずですが、その答えは後々残酷な形で知らされることになるわけです。キム一家もパク一家と同様で、自分たちよりも下に人がいることに気が付いていなかったんですよね。
 
ここでわかるのは、人は上をみて羨望や嫉妬といった感情を抱きもがくわけですが、下には目を向けることがない、関心がないということです。だからこそ「”半”地下」という中間のポジションにいる一家を主人公として話を進めていき、上だけみていたら実は下もありました、という展開にしているわけですが、ここまでまた更に驚きなのが、自分たちよりもさらに下に人がいることに気が付く(=地下室の存在に気が付く)シーンが映画のちょうど半分であるということです。
こんな綿密なトリックありますか?ここまで細かく細部にまで計算し尽くした作りこみに、ポン=ジュノ監督の異様なまでの映画への執着や求めるレベルの高さ、芸術作品としての完成度を感じました。完璧すぎる構成で、映画作品というか一流の美術・芸術に感じました。映画として制作した美術品というかなんというか。とにかくこの前半と後半の分岐点によって、「半地下」であることの意味を最も残酷な形で示され、思い知らされたように感じました。
 
そしてこの「地下」の存在が明らかになったところで更に残酷だと感じたのが、半地下のキム一家が貧困を極めた”底辺”であるかのように前半描写しつつ「あとは上るのみ」と見せかけて、更に下ることもあると現実で頭を殴ってくるところです。
 
行き過ぎた資本主義の末路とか、格差社会の正体とか、そういうものを「地上」「地下」という実際に目に見える高低差に喩えて表現しているのが唸るほど上手いのですが、それ故に格差社会の恐ろしさと目に見える「地下」にひきずりこまれる恐怖がおぞましい形で合致して、更なる心理的恐怖を煽っていると感じました。
 
 
 

山水景石(水石)とは何だったのか

ギウの先輩であるミニョクから譲り受ける石ですが、これにまつわる考察はなかなかに悩ましいものでした。鑑賞後も様々な考察記事などを読んで考えを巡らせていたのですが、個人的には下記の解釈です。
 
そもそも水石とは鑑賞用の石であり、高尚な芸術趣味として楽しむための”象徴”的なものなわけですが、ギウはこれをもらい受けた時にいわば魅了されます。水石を富・豊かさの象徴として捉え、身分を偽り上流階級に"pretend"し、ゆくゆくはそのまま成り上がるためのお守りのように持ち歩いていたのだと思います。しかしながら、地下の住人によってその計画が狂い始め元の半地下へと戻された時、汚水の中から不自然に水石が浮かび上がり、それを手に取るのです。
ここの解釈が非常に難しいところですが、大きくわけて2つに分かれると思いました。
 
①水石が水に浮いた=本物ではなかった
 (後々、軽い石だったからこそ、殴られても死ななかった)
②水の中で浮かび上がる=貧者は下に沈むが富者は上に上がる
 
どちらの解釈もあり得ると思うんです。個人的に①の解釈も好きなんですが、あの水に浮くシーンがあまりにも不自然というか、あそこだけ自然の摂理・重力といったものに反した映し方をしているような気がしてしまいまして、現実の描写というよりはギウの頭の中というか、比喩的な表現として映しているのかなと思ったんです。また、そこで石が本物ではないと気付いたとしたら、そのあともずっとあの石を抱えているのがおかしいんですよね。上にいくことを諦めたならまだわかるのですが、パーティの日ダヘに「僕はここに馴染んでいる?」と尋ねているし、金持ちに対しての羨望の眼差しは消えていなかったので、だとすると①の解釈をするとそこの辻褄が合わないなと思ってしまったわけです。
 
そのため、個人的には②の解釈としてとらえました。アクシデントによって丘の家から下へ下へと元の場所へ戻され、更には大規模な水害によって家は汚水まみれ。”pretend”はできても本質は変わらない半地下の住人であることを思い知らされるわけですが、同時にそんな環境でも富や豊かさの象徴である水石は沈まず、浮かんでいた。この現象をギウは「この石は僕にへばりついてくる」と表現して、この石はまだ自分を上に押し上げてくれるのではないか、そんな一縷の希望を感じて再度計画を練り直そうというきっかけになったのかなと。
だからこそ、地下室に男を殺しに行くシーンでその石を落としてしまった時、富の象徴が落下=ギウが上の人間になる可能性が潰えた、というわけです。
どうでしょう、最高に残酷で最高な暗喩じゃないですか?個人的にはこの後味悪い表現が非常に好みなのでとてもよかったです。
 
 
 
以上特に気になった2点をピックアップして個人的な解釈・考察を書いてみました。
上記だけでなく他にも考察しがいのある点がありすぎるくらい詰め込まれていて本当に密度の濃い作品でした。一つ一つ語りたいところなのですが、今回のエントリーではひとまずここまで。ぜひみなさんもぜひ自分なりの考察を立ててみてください。
それではー。